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三河の住人の庵

三河の住人の庵

城跡めぐり

07年06月23日

牧野城(豊川市牧野)

牧野城址.JPG 牧野城土塁.JPG

牧野城は 四国から来た牧野氏が 応永の頃(1394~1427)に築いた城である。
牧野氏は この後 牧野成時(古白)のとき 瀬木城、一色城を経て 
今橋城(豊橋市吉田城)に精力を伸ばす。


一色城(豊川市牛久保)

一色城は 鎌倉公方(足利)の一族 一色時家が1439年築城した。
時家は 1477年 豪臣 波多野全慶に討たれた。
16年後1493年年 牧野成時(古白)が 全慶を討って一色城主となる。
一色城址は 今 大聖寺となっており 一色時家の墓はここにあるのだが
今川義元の胴塚の方が知られている。

義元胴塚.JPG 一色時家墓.JPG

一色城の遺構は 大聖寺から 少し東に 土塁跡がある。
木柱に 一色城保障(カキアゲシロ)外塀と墨書してある。

一色城土塁.JPG

ここから 600mばかりの所、牛久保駅の踏み切りの南に行くと
牛久保城址碑がある。

牛久保城址.JPG

一色時家の墓の案内には 古白の次男 成勝にこの城を与えたとき 
一色城を改めて 牛久保城と呼んだと書いてある。

一色時家.JPG

古白は 今川方につき 1505年 今橋城を築城して勢を張ったが 
翌1506年 今川氏親により 攻められて死んでいる。
 
牛久保城は 牧野成時(古白)-成勝の傍系の 牧野成定が
2代城主となっている。

成定の孫 忠成は 越後長岡藩の城主となっている。

長岡藩には 参州牛久保の壁書18条が 代々伝えられている。
その第1条は「米百俵」で有名な 『常在戦場の四字』
長岡出身の 山本五十六の座右の銘でもある。

壁書には 
「武士の義理 士の一分と言ふ事」
「腰は不立とも一分を立よと言ふ事」
「士の魂は清水で洗えと言ふ事」
という言葉も見える。
三河武士の魂が幕末まで伝わったと言える。  

司馬遼太郎が 河合継之助生涯を書いた「峠」の舞台が 
幕末の長岡藩である。

さればこそという思いである。









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